<無題>

現代について考えてみようと思う。
いや、考えるというよりも、本質的な意味で現代という時代は何なのか?

僕自身は今ここで、完全な、隠遁生活を始めたことによって、そのことでもう現代社会の病理であるとか、あらゆる意味での地球のマイナスの側面の影響をほとんど蒙らないで済んでいる。

非常にシンプルな生活をしており、贅沢らしい贅沢はほとんどしない。
外出をするといっても、家から半径500メートルほどの範囲を散歩するだけだ。

そのせいで、ストレスというものを一切、感じないで生活することが出来ている。
東京に住んでいた頃は、毎日がストレスの連続であった。

僕は典型的な企業内サラリーマンであったし、また、サラリーマンとして組織内で出世するという夢を捨てきれないでいた。
だから、苦しかったんだと思う。

僕は何度も転職を繰り返し、職を転々としたが、苦しい生活からはとうとう抜け出すことは出来なかった。
だが、絶望のどん底にいて、僕は光を発見したのだ。
それは、もうこれ以上会社で頑張る必要はないということだった。

一度、あきらめたことによって、それまでの緊張の糸が切れたのか、肩の荷をおろしたような気分になった。出世をしなければいけない、他人と争って競争に勝たなくてはいけないという気持ちはあまりに大きかった。

だが、人生でわざわざレースに参加する必要はないわけである。
最初から、レースに参加しないという選択も可能なのだ。
そもそものはじめから、楽隠居の生活を開始するという人間がいたっていいじゃないか?

レースに巻き込まれている渦中というのは、必死であまり外のことが見えなくなっているものであるが、こうして、田舎で隠居暮らしをはじめてみると、今まで見えなかった、あるいは感じなかったものが非常にすっきりと見えてくるような気がするのだ。

もちろん、経験の量であるとか、快楽の質、刺激の量というのは都会の方が田舎に較べて勝っているに違いない。

だが、幸福の視点といったものに目を向けたとき、この世の中のどこに自分の眼差しを向けるかによって、人は幸福になったり、不幸になったりするのだと思う。


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