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人間というものは、徹底的に世間から隠れて、隠居生活などを送っていると、日々、考えることが抽象的になるということはもちろんであるが、それ以上にやっかいなのは、過去の出来事を繰り返し、繰り返し、むやみに反芻してしまうということである。

生活をしていれば、すなわちライフを送っていれば、あるいは、職業人として組織内で仕事をしていれば、「あの上司の顔が気に食わない!」とかなんとか、考えることというのが、具体性を帯びてくるものであると思う。

その具体性というものがいわゆる生活感情というものの顕れではないか。
学者であるとかそういった人たちというのは、複雑で雑多な人間社会というものをあまりにも単純に一般化しすぎるきらいがあるのではないか。

だが、そういった過度の一般化というものが行なわれていたとしても、現実としてすぐれた学者が書いた面白い論文というものは世の中に存在する。
これは不思議なことであると思う。
企業人としての経験を一切持っていない人間が、たとえば組織内労働の疎外の問題について語ったところで、説得力のある話というのはいくらも出てこなさそうなものであるのだけれど。

それでも、読んでいて楽しい論文、説得力のある論文というのがあって、目から鱗という論文にぶつかると心がワクワクとしてくる。

世の中を単純に、「知識か経験か?」という二項対立で考える人があまりにも多いように思う。
勉強が嫌いな人は、学問をしっかりとおさめた学者などを、「ああいうのは頭でっかちだ」と非難し、「勉強だけ出来て、実社会では通用しない」と批判して、それで何か自分が偉くなったような気になる。

勉強嫌いというものを棚にあげて、いわゆる象牙の塔にたてこもって研究する学者を批判するのである。

もう一方には、学者や研究者の人々がいて、彼らは彼らで正式に学問をおさめていない人々を小ばかにするような風潮がある。

だが、そうやって、どちらの側も自分の正しさ、生き方の正当性というものを誇示したがるものだ。
知識が欠落しているとダメなのか?
経験が欠落しているとダメなのか?

はたまた、知恵がないあいつはダメなのか?
といった話になる。

どうでもいい話である。だが、どうでもいいことに理屈をこねたがるのが人間だ。



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